感覚の曖昧さ。

ニッカオフィスのウチヤマケンイチです。

まず自分が会議室に入る。

そのあと、同じ会議室に次から次へと人が入ってくる。
それも自分の知らない人ばかり。

最初は余裕の空間。
そこも徐々に人が増えていき、いよいよ狭くなって、しまいには目の前の人に触れるほどに。
お互いぎりぎりの距離になったところで、会議室の扉が閉められる。

そして、そこから30分間は場所を変えることも、会議室を出ることも許されない。
しまいには部屋の外で騒音が鳴りつづけ、部屋は地震のように上下左右に揺れ始める。

うーん。こう書くとまるで拷問みたいです。
でもこの状況は僕が毎日やってることで、きっと多くのみなさんもやってること。

会議室ではなくて、電車の話です。
満員電車の混み具合って、日常生活の中では他にあまり経験しません。
あとはエレベーターくらいですかね。

ふと思ったんです。
この状況は「電車」だからまだ耐えることができているだろうなって。
同じ密度や混雑具合だとしても、これが普通の部屋だったら耐えられないと思う。
たとえそれが、毎日経験している距離感や密度であっても。

電車だからこそなんですよね。
なんでだろう。電車は移動という目的があるからか、それとももう慣れているからか。
理由はよくわからないのですが、こういう風に「このシーンだからOK」ということは多い気がします。

例えば、旅先で食べる弁当とか山頂で食べるカップラーメンはなぜだかうまいとか。
あと、あの人が言うと許せないけど、この人だったら許せちゃうとかも同じようなこと。
人の感覚というのはなんとも曖昧だなと。

以前、オフィス近くに設営されていたイルミネーションが取り外されたときの話。
その道を通った知人が言ったんですよ、「この道って、こんなに広かったかな」って。

しばらくの間、道の両側には大掛かりなイルミネーションが設置されていて、たしかにその間は狭くなっていたんです。
ただ外したあと同じ道なのに広い道だと感じてしまう。前からずっとその広さだったのにね。

良いとか悪いとか、広いとか狭いとか。
そういう人の感覚なんて、ほんと曖昧なもんです。
おなかがすいてれば、同じものを食べても格段にうまい。

例えば会議室で、自分が座る椅子の目の前に知らない人が立っていて、それが30分続く。
たったそれだけでもきっと耐えられない。
でも、電車だったらさらにうるさかったり、揺れたりしているのに耐えられてる。

となれば、世界を変えるのは結構かんたんだなと。

まさに、しあわせはいつもじぶんのこころがきめる、ってやつ。
みつをさんは正しかった。

起こっていることをすべてポジティブに捉えることって、革命家が世界をつくりかえるよりも世界を変てしまうかも。

捉え方ひとつ。今夜からでも世界はよくできる。

ウチヤマケンイチ
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